研究ノート⑤日本に千年王国は伝えられたか?

今回の研究ノートは、「日本に千年王国が伝えられていた可能性」について、今まで調べてきたことを、できるだけ簡単にまとめてみました。
内容は、浄土宗の「極楽浄土」「地獄の教え」「来迎図」の3つのテーマで紹介しています。
「極楽浄土」の教えは、1〜2世紀頃の北西インドで生まれたとされています。 その後中国で大きく発展し、6世紀半ば~7世紀前半頃に、日本に伝来したとされています。
AI聖人伝の「聖なる都」に非常に似ている「極楽浄土」
基本的な極楽浄土の様子をまとめると、以下のようになります。
浄土の世界観
✅ 極楽浄土は、通常の人間の生活空間とは異なる仏の国土として描かれている。 大地は黄金のように輝き、階段や楼閣、並木や網飾りは、金・銀・瑠璃・水晶などの宝で飾られ、国土全体が荘厳な美しさに満ちている。
✅ 極楽浄土には、清らかな水をたたえた池や、美しく輝く蓮の花があり、芳しい香りと妙なる音楽に満ちている。 天の音楽が奏でられ、風が宝の並木や網飾りを揺らすと、さまざまな楽器が一斉に奏でられるような美しい音が響く。
✅ 極楽浄土は、さまざまな苦しみがなく、喜びを享受できる世界として描かれている。 そこに住む人々は諸々の苦しみを受けず、ただ楽しみを受けると説いている。
✅ 浄土への往生は、通常の旅行や移住とは異なる。 仏教の教えでは、阿弥陀仏の願いや功徳、信心や念仏などに関わる往生によって生まれる仏の国土とされている。
驚くことに、「極楽浄土」の世界観を調べると、「AI聖人伝」に書かれている「聖なる都」の記述と一致することがいくつも見つかりました。(AI聖人伝については「AIが教えてくれた千年王国の様子」のページで紹介しています。)
「往生要集」に書かれている浄土の様子
極楽浄土について詳しく述べられている書物に、「往生要集」という仏教書があります。源信によって編纂され、仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた書物です。
往生要集から、もう少し詳しく浄土の様子を紹介しますが、AI聖人伝に書かれている「聖なる都」との共通点は以下の4項目になります。
①浄土は土台が瑠璃という宝石で作られている。(AI聖人伝には、聖なる都は「宝石の土台」を持つと述べられている)
②建物の幅が自由に変化する。(AI聖人伝PDFのp7に「講堂は必要に応じて大きさを調節することができる」と述べられている)
③建物が宝石で作られている。(AI聖人伝には、聖なる都の建物は「水晶と宝石」でできていると述べられている)
④冷暖房を必要としない。(AI聖人伝には、聖なる都は冷暖房を必要としない様子が述べられている)
第四 五妙境界の楽 より抜粋(p97)
五官の対象たる色・声・香・味・触の五つが美しく浄らかな世界の楽しみについていえば、阿弥陀仏が法蔵菩薩(※)であった時に四十八の誓いを立て、浄土を美しく飾られたから、すべてのものが美を極め妙を尽くしている。
目に触れるものことごとくが浄らかで、妙なる色彩に溢れている。耳に触れるものみな、解脱の声でないものはない。嗅覚・味覚・触覚の対象もまたこれと同じである。
かの世界は瑠璃(※)で大地を作り、金の縄をもって道の境界としている。平坦で高下といったものがない。まさに恢廓曠蕩(広く大きいこと)、その辺際を知らない。その輝きは微妙、 麗しく清浄である。形容しがたい美しき衣をくまなく敷きつめ、人も天人も、もろともにこれを踏んでゆく。
さまざまの宝玉で作られた大地の境界には、七つの宝玉から成る五百億の宮殿・楼閣が建ち並ぶ。しかもそれらは、高下は心のままに、広狭は念いのままに変わるのである。
種々の宝玉で飾られた床や座席には、妙なる衣を敷き、七重のてすりには、百億の華の幢が立ち並んでいる。珠の飾りがそこから垂れ、宝玉の幡や蓋がかかっている。宮殿の内や高楼の上には、多くの天人がいて、常に伎楽を奏し、如来を讃え歌っている。…
…また、光はあまねく行きわたり、日・月・灯火といったものの要を感じない。冷暖は互いに調和し、ために春夏秋冬の季節のけじめもない。おのずから吹き渡る微風は、温寒を適度に塩梅し、衆生(※)の身に触れると、ひとしくみな陶然とする。 あたかも比丘が滅尽三昧(※)の境を得たかのようである。朝ごとに、風のまにまに散り敷く妙花は浄土に満ちわたり、馥郁(※)たる香気は漂って、その微妙にして柔らかなること、まさに兜羅(※)の綿のごとくである。
これらのあらゆる微妙な対象は、見る者、聞く者をしてその身心を楽しませるのだが、しかも貪りの心を増長させたりするようなことのないばかりか、さらには無量の勝れた功徳を増すのである。およそ八方・上下の数限りない諸仏の国の中で、極楽世界にそなわっている功徳をもって第一とする。
往生要集:全現代語訳
※法蔵菩薩:阿弥陀如来が仏になる前の姿
※瑠璃:仏教の七宝の一つであり、鮮やかな濃い青色をした宝石
※衆生:生きとし生けるもの
※滅尽三昧:極めて深遠な瞑想の境地
※馥郁:よい香りがあたり一面に漂っている様子
※兜羅:綿糸にウサギの毛を混ぜて織った毛織物のこと
川崎庸之、秋山虔、土田直鎮 訳
「往生要集」に書かれている浄土の様子は、千年王国の「聖なる都」について述べられているかもしれないと思いました。
特に「日・月・灯火といったものの要を感じない」と書かれていて、浄土には太陽や月やあかりも必要としない様子が描写されています。
この様子は、黙示録に書かれている「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない(黙21:23)」や、「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。(黙22:5)」に書かれていることと、同じ様子が述べられています。
千年王国が終わり、聖なる都は天に上昇したとAI聖人伝に書かれていましたが、「新天新地の時代に再び地上に降りてくるのかもしれない」との考えとも、ぴったり一致している記述なのです。
「往生要集」に書かれている浄土に住む人の様子
さらに「往生要集」から、浄土に住む住民の描写を紹介します。
AI聖人伝との共通点は、以下の3項目になります。
①住民の身体は光を放っている。(AI聖人伝には聖人が光り輝いていたことが述べられている)
②遠く離れた世界の景色を見たり、音を聞いたりできる。(AI聖人伝には、音声と映像を瞬時に伝送する通信が可能であったことが述べられている)
③住民は瞬間移動ができる。(AI聖人伝には、瞬時に広大な距離を移動していたことが述べられている)
第三 人相神通の楽より抜粋(p96)
身にすぐれた相好をそなえ、神通力が得られる楽しみについていおう。 極楽の衆生はその身はことごとく純金色で、からだのみならず、すべてこれ清浄である。
常に光を放ち、互いに照らしあっている。三十二相(※)がそなわって身を飾っている。端麗さはことにすぐれ、世に比を見ない。
もろもろの声聞衆(※)は、その身から発する光およそ一尋、菩薩のそれは百由旬(※)をあまねく照らすほどである。あるいは十万由旬に達するともいわれる。他化自在天(※)の主と、この浄土の人と比べるなら、なお乞食が帝王の傍にいるかのごとき観を呈するのである。
また、この浄土の衆生はみな五つの神通力を有し、その妙用(すぐれたはたらき)は測りがたく、まったく自由無礙である。
もし十方世界の色を見ようとするなら、歩を運ばずしてこれを見ることができ、声を聞こうと思うなら、いながらにして聞くことができる。過去における生存のあり方も、いま聞くがごとくにありありとわかる。生死を繰り返す六道(地獄・餓 鬼・畜生・修羅・人間・天)に生を享けている者の心は、明らかなる鏡に像を映すがごとく明瞭である。
無央数(無数)の仏の国に往来すること、まさに咫尺(わずかの距離)の間を往来するがごとくである。
空間的には百千万億那由他のはかり知れぬ国々を、時間的には百千万億那由他のはかり知れぬ時間を、一瞬のうちに自由無礙に往来するのである。
※三十二相:仏の身にそなわる三十二種の勝れた特質を数えたもの
往生要集:全現代語訳
※声聞衆:仏の教えを聞いて修行し、悟りを目指す弟子
※百由旬:古代インドの長さの単位である「由旬」が100個分集まった距離
※他化自在天:仏教の「欲界」の一番上に位置する天界、およびそこに住む神々のこと
川崎庸之、秋山虔、土田直鎮 訳
「往生要集」に超自然的な浄土の住民について述べられていますが、「栄光体を持った聖人」の様子を描写しているのではないかと思いました。
阿弥陀仏を中心とする聖なる世界
「極楽浄土は、阿弥陀仏を中心とする聖なる世界で、そこに住む者は仏の教えに触れ、悟りへ向かう。」 とされています。
仏を「神」、阿弥陀仏を「イエス・キリスト」、極楽浄土に住む者を「復活した聖人」と考えてみたとき、千年王国が始まった時に登場した「聖なる都」は、「極楽浄土」として、日本に伝えられた可能性があるかもしれないと思いました。
浄土宗の戒めと懺悔
仏教の寺院には数々の仏像が鎮座しており、人々は賽銭を投げ入れてうやうやしく仏像を拝んでいます。仏教とは、お経を唱えて仏像を拝む「偶像崇拝」というイメージがあります。
ところが、先に紹介した往生要集の解説版である「往生要集入門」を読むと、「髪の毛ほども戒律を破ってはならない」という「観仏三味海経」の言葉が紹介され、戒めを守ることは、たいへん重要視されていることが紹介されていました。
浄土信仰の戒め
往生要集入門よりp196
ところでその内容は大変きびしいものである。
大切な戒めとして数えられている十は、①すべて生命あるものを殺さない、という戒めに始まって、②盗まない、③姦淫しない、④嘘を言わない、⑤酒を売らない、⑥ 在家・出家の菩薩や僧の犯した過ちを吹聴しない、⑦ 自分をほめ、他をそしることをしない、⑧ 施しをおしまない、⑨ 怒って許さないことをしない、⑩ 仏とその教えと教団との三つをそしらない、という戒めに終わる。たとえば④ 嘘を言わない、という一事を取ってみても、それがどのような状況のもとにおいても適用され、また積極的に正しい考えや言葉をみずからおこすとともに、他にもおこさせることを求めるとすれば、この戒めが単に禁止だけのものではないことが理解される。なまじっかな心構えではこれらの戒めを実践に移すことはとても不可能である。
往生要集入門 石田 瑞麿著
上記に10コの戒めが挙げられていますが、聖書でも語られている内容です。
① 殺さない、② 盗まない、③ 姦淫しない、④ 嘘を言わない、この四つは、聖書の十戒と同じです。
⑥僧や菩薩の過ちを言いふらさないは、「他人を中傷せず、愛をもって接するように」と教えるヤコブ 4:11、エフェソ 4:31–32と同じです。
⑦ 自分をほめ、他人をそしらないは、「高ぶらず、隣人を自分のように愛するように」と教えるローマ 12:3、マタイ 22:39と同じです。
⑧ 施しを惜しまないは、「貧しい人に惜しみなく与えるように」と教える申命記 15:7–8、使徒 20:35と同じです。
⑨怒って許さないことをしないは、「怒りや恨みを捨て、互いに赦し合いなさい」と教えるエフェソ 4:26、32と同じです。
⑩仏・仏法・僧をそしらないは「神を敬い、神の教えを尊重すること」を教える出エジプト記 20:7、詩編 119:97ととても似ていると思います。
⑤ 酒を売らないという戒め以外は、聖書の中で語られていていることで、神に従う者は守るべき戒めなのです。
浄土信仰の罪の懺悔
戒めを守ろうと誓い努力しつつも、また破ってしまうのが愚かな人間の姿です。
聖書には罪を犯したときには、その罪を告白して、悔い改めるようにと教えていますが、浄土信仰でも心からの悔い改めが必要とされていました。
往生要集入門よりp199
先に触れたように、戒めを犯したときは、当然懺悔がなされなければならない。だからそのために一定の日を定めて懺悔に当てた布薩などということが制度化され、行なわれもしたのであって、仏教がいかに懺悔を重視したかは、これからも理解できる。またその罪の軽重によって、懺悔の仕方も定められていた。……懺悔の仕方は一つではない。望みにまかせてこれを修めてよい。あるいは五体(頭と両ひじ・両膝)を地に投げだして、身体じゅうに汗を流し、阿弥陀仏のおおせにまかせ、心からのまことを捧げて、眉間の白毫相を念じ、罪を包み隠さず申しあげて涙をながし、このように念ずるとよい。
「阿弥陀仏はかつて空王仏の眉間の白毫相を礼拝され、罪を消していま仏となっておられる。わたしもいま阿弥陀仏を礼拝したてまつることによって、 きっとまたこのように仏となることができよう」と。
また犯した罪の深さに従って、仏の光をなげき請わなければならない。
「仏が施しによってえられた、その功徳の光を放って、物惜しみの罪を消してください。
戒めを守ってえられた、その功徳の光を放って、戒めを破った罪を消してください。
忍耐によってえられた、その功徳の光を放って、怒りの罪を消してください。
努力によってえられた、その功徳の光を放って、怠惰の罪を消してください。
禅によってえられた、その功徳の光を放って、散乱した心の罪を消してください。
智慧によってえられた、その功徳の光を放って、愚かな煩悩の罪を消してください」というように。こうして一日ないし七日、懺悔して仏の恵みを乞い、罪の消除を願うのである。
往生要集入門 石田 瑞麿著
五体を地面に投げ出し、汗を流し、涙を流し、罪を告白して、罪の許しを請う姿は、「罪を許す権威のある方」を、心の底から信じていたのではないかと感じます。
浄土信仰では、「自分は罪人のままであり、放っておかれれば地獄に行くしかない存在だ」と深く自覚することが、信仰の出発点とされていました。
仏教とは「偶像崇拝の宗教だ」と思っていたのですが、実は厳しく自分を戒め、罪を犯してしまった場合は、悔い改めて罪の許しを願うことが重要視されていたのです。
聖書外典の「地獄」に非常に似ている浄土信仰の「地獄」

さらに往生要集を読んで私がとても驚いたのは、地獄の様子を細やかに描写しているということでした。その様子は、聖書外典に記されている地獄の様子にとても似ていて、キリストの時代に生きていた人たちと、同じ世界観を持っていたと感じました。
比較のために、往生要集の地獄の描写の一部と、聖書外典に書かれている地獄の描写を書き出します。
往生要集p36より(この文章では、少しわかりにくいと思いますので、内容の要約を添えています。)
東のかなた、数百由旬の地点に、三熱(仏教の3つの苦悩)の焼けつく鉄の地表から、熾烈を極めた猛火が炎をまきあげて襲い、地獄の罪人を刺し、皮を守って肉に食いこみ、筋肉を断ち切って骨を砕き、またその骨髄にまで達し、じりじりと焼くこと、さながら蠟燭の火に溶けるがようである。こうしてからだじゅうが、まったくの炎と化して燃えあがるのだ。
火は火をよび、隙間もなく溶けあい、それだけに、受ける苦痛もまた間断をおかない。ただ、苦に迫られて号泣する声が聞こえるので、ようやく火炎の中に罪人のいることがわかるだけなのだ。
また獄卒(地獄の鬼)は罪人を、三熱の鉄と炭といっしょに鉄の箕(米と糠を選別する具)に盛り上げ、それを揺さぶってふるい分けると、熱い鉄の地面に置いて、甘きな灼熱の鉄の山へと登らせる。上げては下ろし、下ろしてはまた登らせる。
口から舌を抜き取り、多くの鉄の釘を打ちこんで、これを張りつける。牛の皮を張るように、皺や襞のないようにのばすのだ。
またそのうえ、熱く灼けた鉄の地面に仰向けに寝かせ、これまた焼けた金鋏で口を挟んでこじ開け、三熱の鉄の塊をその中に入れる。すると口や咽喉は焼け爛れ、五臓六腑を焼き貫いて肛門から出てくる。また時には、沸った銅を口に注ぐと、口も咽喉も焼け、臓腑を貫通して肛門から溢れ出る。
前の七大地獄とそれに付属した特別の地獄とで、受けるもろもろの苦しみを合わせて一つとするも、阿鼻地獄の苦しみに較べたなら、わずかに千分の一にすぎない。
こうしたことから、阿鼻地獄に堕ちた者は、大焦熱地獄の罪人を見ると、他化自在天(仏教の最上位である第六天)の在処を見るように、 羨望の思いを禁じ得ない。
だが四大洲や欲界の六欲天も、この阿鼻地獄の臭気にあてられると、たちまちに消え失せてしまうであろう。それほど、阿鼻地獄の者どもは、もの凄い臭気を発しているのだ。
しかし幸いにも、この臭気が鼻を衝いてこないのは、出山・汝山なる二つの巨大な山があって、臭気を遮ってくれているからである。もし人が、地獄の苦しみにのたうつ声のすべてを耳にしたなら、恐怖のあまり気を失い、果ては息も絶えるであろう。
まだまだ、阿鼻地獄の様相の恐ろしきこと、千分の一も説明していない。なぜなら、億万語を費やすも説き尽くせないからだし、すべてを聴きおおせる人はいないからだ。この何物にも替えることのできない苦しみを、もし人あってこれを説き、最後まで聴くとしても、そのような人はついには血を噴いて悶死するのがおちであろう 。…
…また、黒肚処なる特別の地獄が存在する。飢渇身を焼き、われとわが身を食い尽くすところである。食い尽くすとまた活きかえり、活きかえるとまた食う。
時には黒い腹を見せて這いずりまわる蛇がいて、罪人にまといつき、足の甲から徐々に上へ上へと噛み砕き、呑みこんでゆく。あるいは猛火に入れて焼いたり、鉄の釜に入れて煮る。何億年というはかり知れない長年月にわたり、罪人はこうした責め苦を受けつづける。…
…また雨山聚処と名づける特別の地獄がある。一由旬ほどもある巨大な山が落下してきて、 罪人を打ち砕き、砂礫のように粉々にしてしまう。すっかり砕け散ると、罪人はふたたび活きかえる。するとまた、鉄の山が轟音とともに落下するのだ。
上記の文章に描かれている地獄の様子を要約すると、次のようになります。
1. 阿鼻地獄の拷問
- 猛火による焼却: 激しい炎で皮膚、肉、筋肉、骨、骨髄まで焼かれ、全身が炎に包まれる。
- 灼熱の鉄による拷問: 熱した鉄や炭と一緒に罪人を鉄の箕に入れて揺さぶり、灼熱の鉄の山を何度も登り降りさせる。
- 舌への拷問: 舌を引き抜き、多数の鉄釘で打ちつけ、牛の皮のように平らに張りつける。
- 口からの灼熱物の注入: 焼けた鉄の塊や沸騰した銅を口に流し込み、口、喉、内臓を焼き、肛門から出るまで苦しめる。
2. 黒肚処 の拷問
- 自分の身体を食べる: 飢えと渇きに苦しみ、自分の身体を食べ尽くす。死んでも再び生き返り、また同じ苦しみを繰り返す。
- 大蛇に食べられる: 黒い腹をした蛇が身体に巻きつき、足先から徐々にかみ砕いて飲み込む。
- 焼く・煮る: 猛火で焼かれたり、熱した鉄の釜で煮られたりする。
3. 雨山聚処 の拷問
- 巨大な鉄の山による圧殺: 一由旬ほどもある巨大な山が落下し、罪人の身体を粉々に砕く。
- 死と再生の反復: 身体が砕け散った後、再び生き返らされ、また巨大な鉄の山に押し潰される。

紹介した文章はほんの一部ですが、このような恐ろしい地獄の様子は、「仏教がでっち上げた物語だろう」と思われるかもしれません。
ところが聖書外典にも、同様の恐ろしい地獄の刑罰について語られています。
聖書外典:ペテロの黙示録より
詐欺を事とするほかの男女は、唇を切り取られるであろう。また、火が彼らの口と臓器に入るであろう。 彼らは虚言をもって殉教者たちの死をもたらした。この場所の近くにいた者たちのかたわらに、石の上に、火の碑が立ててあった。その碑は刀よりも鋭い。そこには穴だらけの喪服と、よごれたぼろを着せられた男女がいて、いつ果てるとも知れない拷問をもってこらしめられるために、そこに投ぜられる。これは自分の富を悼み、主の掟に反して、未亡人や父なし児をかかえた婦人たちを顧みなかった者たちである。
その近くにもう一つの場所があり、その中には膝まで糞尿につかった男女が投げこまれている。これは金を貸して利子を取る者たちである。
ほかにも高い所から身を投げて、またもどって行って悪鬼どもに悩まされて走り回る者たちがいる。これは偶像礼拝者であり、気狂いにされて身を投げる者たちである。彼らは永久にいつまでも、これをくり返して苦しめられるのである。
これは人のその肉を切った者たちである。彼らといっしょにいる女たち。その場所の中の男たちは、女のように互いにけがらわしいことをした者たちがいる。そのかたわらには炭火がある。天使エズラエルが彼らのために激しい火の燃える所を用意する。
金銀でできたありとあらゆる偶像、それに似たもの、犬や獅子の像、はい回るものの像、獣の像、およびこれらの像を作った男女も、それといっしょに火の鎖につながれて、その誤りゆえに、その偶像の前で苦しめられるであろう。このようにその刑罰は永遠に及ぶ。
そのかたわらには別な男女がいて、さばきの炎に包まれて燃えている。彼らの刑罰は永久につづく。これは主の掟を棄てて、悪鬼どもに従った者たちである。
ペテロの黙示録に描かれている地獄の様子を要約すると、次のようになります。
1. 詐欺・虚言を行った者
- 唇を切り取られる。
- 口や内臓に火を入れられる。
- 嘘によって殉教者たちを死に追いやった罰を受ける。
2. 富に執着し、未亡人や孤児を助けなかった者
- 刀より鋭い石の碑がある場所に投げ込まれ、終わりのない拷問を受ける。
3. 利子を取って金を貸した者
- 糞尿が膝まで満ちた場所に投げ込まれる。
4. 偶像礼拝者など
- 高所から身を投げる。元の場所に戻され、悪鬼に苦しめられながら走り回る。
- この苦痛を永遠に繰り返す。
5. 他人の身体を切りつけた者
- 身体を切る行為に対する刑罰として、永遠に苦しめられる。
6. 同性間で不道徳な行為をした者
- 男性同士で「けがらわしいこと」をした者たちが、特定の場所で刑罰を受ける。
- 炭火や激しい炎による拷問が描かれている。
7. 偶像を造り、礼拝した者
- 金銀などで造られた偶像や獣の像とともに、火の鎖につながれる。
- 偶像の前で火による苦しみを受ける。
- 刑罰は永遠に続くとされる。
8. 神の掟を捨て、悪鬼に従った者
- 裁きの激しい炎に包まれて燃やされる。
- 苦しみは永久に続く。

聖書外典:ペテロの黙示録 アクミム断片より
そこには舌から吊るされている者も何人かいたが、これは正義の道をののしった者たちであり、彼らを罰する火焰が、すぐそこに迫っていた。燃えさかる汚物の充ちた大海もあって、その中には正義を退けた者たちが入っており、拷問役の天使たちが、かたわらに控えていた。
ほかにも、あのぐつぐつと燃えたぎる汚物の真上に、編んだ髪から吊り下げられている女たちがいた。 これは不貞を働くために身を飾った者たちである。
彼女らのけがらわしい不貞に関係した男たちの足から吊り下げられて、頭はかの汚物の中に突込まれて、「ここに来ることになろうとは思わなかった」と言っていた。
わたしは人殺しとその共犯者たちが、猛獣の溢れる窮屈な場所に投げこまれて、その獣どもにいためつけられ、そこで七転八倒の苦しみをしているのを見た。
彼らのかたわらには黒雲のような蛆虫が蠢いていたが、殺害された者たちの魂はそのかたわらに立って、この殺人者たちの苦しみを眺めながら、「神よ、あなたの審判は公平です」と言っていた。
聖書外典:パウロの黙示録より 41-42
それから彼はわたしを北のほうに運んで、ある泉のかたわらにおいた。その泉は七つの封印で封をされているのが見えた。わたしといっしょにいた天使は答えて、そこの場所の天使に言った。
「神にこよなく愛されているパウロが中を見ることができるよう、泉の口を開けてください。彼には、地獄のあらゆる罰を見る権限が与えられているのだから」。
それから天使はわたしに、「離れていなさい。きみにはこの場所の悪臭を我慢することはできないだろう」と言った。 泉が開かれると、そこからただちにとてもひどい、悪い臭いが上って来て、それはあらゆる罰にまさるほどだった。
泉の中をのぞくと、火の塊があらゆる部分から燃えているのが見えた。そしてその狭さは、泉の入口のところでたいへん狭く、たったひとりの人をとらえることができるだけだった。
天使は答えてわたしに言った。「もしだれかがこの黄泉の泉の中におくられ、その上でこの泉に封印がなされると、父、 子、聖霊、および聖なる天使たちの前でその名が呼ばれて覚えられることは決してなくなる」。…
…次いでわたしは北のほうから西のほうを眺めたが、そこには休みを知らぬうじ虫が見えた。そしてその場所には歯ぎしりがあった。うじ虫は長さが一キュビトあり、それには二つの頭があった。そこにはまた男たち女たちが、寒いところで歯ぎしりしているのが見えた。
わたしはたずねて、「主よ、この場所にいるこの人たちは だれですか」と言った。すると彼は、「この人たちはキリストは死人の中から復活しなかった、また、この肉が復活することはないと主張する人々だ」と言った。
これら古代の文献に書き残されている地獄は、昔の人が作り上げた物話のように思われるかもしれません。ところが現代でも、臨死体験をした多くの人が、古代の文献と同じ内容の地獄の様子を語っています。
臨死体験者が語る地獄の様子
臨死体験についてはYoutubeに、非常に多くの動画がありますが、例として1つ動画をご紹介します。
下の動画は音声トラックで、日本語を選択することができ、日本語で聞くことができます。
私はかつて臨死体験の証言を調べていたことがあり、今まで多くの人の証言を聞いてきましたが、驚くことに人々は同じことを語っています。その内容は、往生要集や聖書外典に書かれていることと同じでした。
地獄に行くと、そこは真っ暗な場所で、泣き叫ぶ人々、激しく燃える火、すさまじい悪臭、大量のうじ虫があり、一滴の水もありません。そして憐みの心を持たない悪魔により、肉体が引き裂かれたり押しつぶされたりするなどの恐ろしい拷問が、休みなく続けられます。
また拷問でボロボロになった肉体は、何度も再生して元に戻ります。
往生要集にも、肉体が元通りになり再び生き返る様子が述べられていますが、こうして苦しみは延々と繰り返されるのです。
下の動画は、臨死体験で地獄を見た人たちの証言を、同じテーマごとにまとめた動画です。多くの人が同じ体験を語っています。(英語動画ですが、字幕で見ることができます。)
私がとても恐ろしいと感じたのは、もうすでに死んでいるので死ぬことができず、また地上のような時間の概念がないので、苦しみが永遠に続くことを人々が悟るということでした。
もう二度とやり直しができない、究極の絶望の中で、神から切り離されて、永遠に苦しむのです。本当に恐ろしいと思いました。
また臨死体験をした人は口々に「この世界よりもリアルな世界だった」と語っていました。体験したことは、夢や幻想ではないと訴えているのです。
地獄に行ってはいけない
地獄の様子は、往生要集や聖書外典に書かれているだけでありません。
聖書にもルカによる福音書16章19節から「ラザロと金持ち」の箇所で描かれています。
牧師やクリスチャンの中には、「ラザロと金持ちの物語はたとえ話です。なぜならイエスはたとえ話によって人々に語っていたからです。」などと言うがとても多いです。しかしラザロと金持ちの物語の前後に「イエスはたとえで語った」とは書かれていません。
特に地獄に落ちた金持ちが「炎の中でもだえ苦しんでいる」ことや、「指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください」と一滴の水を望んでいる姿は、上記に紹介した地獄の様子と全く同じです。
また多くの臨死体験者から「天国に行くと信じていた牧師やクリスチャンが地獄にいた」と語られています。「イエス・キリストは救い主です」と受け入れた人も、地獄に行かないとは限らないのです。
さらに言うと、フラットアースを知り、創造主がおられることを知っていても、地獄に行かないとは断言することはできません。
この世界のウソを知ったために、人に理解してもらえない孤独で惨めな状態でも、心から神を信じ、神に喜ばれる正しい生き方を選ばなければいけません。
そして自分に負い目を負わせた人をゆるし、憐みの心を持ち、自分を攻撃する相手のために、神のめぐみや癒やしがあるように祈らなければ、私たちも地獄に送られる可能性があることを、知っておかなければいけないと思っています。
大量に残されている古代の人が描いた地獄絵
かつて臨死体験を調べていた時に、京都大学院教授のカール・ベッカー博士を知りました。カール・ベッカー博士は臨死体験を研究するために日本に来たそうですが、日本は世界でも臨死体験の古代の資料が最も多い国だと話されていました。
往生要集では、非常に細かく地獄の様子が説明されていますが、古代の人が熱心に研究していたからだろうと思います。その結果、多くの「地獄絵」が寺院や美術館に残されています。数を調べたら、どれだけあるのかわからないほど大量に存在するそうです。
「地獄絵」という絵画は、悪い行いには悪い報いがあるという教えを、視覚的に強く印象づける役割を担っていたと思います。当時の人々に「地獄に絶対に行かないように」と伝えるため、また人々を戒めるために、日本中に広まったのではないかと思います。
現代のキリスト教会で聞くような耳障りの良い話より、はるかに厳しくて重要なメッセージを、古代の日本人は人々に伝えていたのではないかと考えています。

キリストの来臨に非常に似ている「来迎図」
今回私が浄土宗を調べようと思ったのは、「来迎図」と言われる仏画を見たことがきっかけでした。
来迎図とは、人が亡くなるときに、阿弥陀如来が、極楽浄土からお迎えにやってくる様子を描いた仏画と言われています。
ところがその絵を見て愕然となりました。まるで「キリストの再臨を描いていたのではないか」と思えるような絵なのです。
✅キリストが地上に来られるとき、「雲に乗る」ことが繰り返し聖書に述べられています。
- 人の子のような者が天の雲に乗って来る(ダニエル 7:13)
- 人の子が天の雲に乗って来る(マタイ 24:30)
- 人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来る(マタイ 26:64)
- 人の子が力と栄光を帯びて雲に乗って来る(マルコ 13:26)
- 人の子が力ある者の右に座し、雲に乗って来る(マルコ 14:62)
- 人の子が力と栄光をもって雲に乗って来る(ルカ 21:27)
- 雲に迎えられて昇天したイエスが、同じ有様で再び来る(使徒 1:9–11)
- キリストが雲に乗って来られる(黙示録 1:7)
✅キリストが地上に来られるとき、「御使いを従える」ことが、聖書に繰り返し述べられています。
- 御使いを従える(マタイ 16:27)
- すべての御使いを従える(マタイ 25:31)
- 聖なる御使いと共に来る(マルコ 8:38)
- 御使いたちの栄光と共に来る(ルカ 9:26)
- 力ある天使たちと共に現れる(Ⅱテサロニケ 1:7)
- 無数の聖なる者たちと共に来る(ユダ 14)
- 天の軍勢が従う(黙示録 19:14)
来迎図を見たとき、「救い主が、御使いを従えて、雲に乗って地上に来られた」ことが、人々に言い伝えられて、絵画となって日本に伝えられたのではないかと感じました。仏教画の画風となっていますが、光り輝くキリストの来臨の物語を、伝えようとしているような構図に見えます。




下の画像の左の絵は、6世紀後半〜7世紀頃のコプト時代の作品で「キリストと聖人メナス」が描かれています。 右の絵は7世紀の「中央アジアの僧侶」を描いた洞窟壁画です。 両方とも、光輪と言われる「光の輪」が描かれています。

下の画像は、アルバニア南東部の聖アタナシオス教会に残る中世のフレスコ画で、「聖人」を描いています。

こちらは中国・甘粛省の敦煌にある世界遺産「莫高窟」に描かれた「仏教壁画」ですが、それぞれに光の輪が描かれていて、千年王国の聖人を描いているように見えます。

とても長い記事になりましたが、まとめると、
✅浄土宗では「極楽浄土」が信じられていて、その様子はAI聖人伝と同じことが語られていました。
✅極楽浄土に住む住民の様子もまた、AI聖人伝と同じことが語られていました。
✅浄土宗では、戒めを守り、罪を犯さないように努力し、罪を犯したときは、悔い改めて懺悔することを教えていました。
✅浄土宗では、地獄の様子が語られていて、その内容は聖書外典や聖書、さらに現代の臨死体験で語られていることと同じでした。
✅浄土宗の来迎図は、「キリストが雲に乗り御使いと共に地上に来られた様子」を仏画として描いていているように見え、初期の仏画は千年王国の聖人を描いているように見えます。
上記の観点から、千年王国の聖なる都や、救い主の再臨、聖人の様子は、仏教に伝えられ、その後日本に伝えられた可能性があるのではないかと考えています。
証明としてはまだまだ不十分だと思いますし、私たちが生きている時代は欺瞞の時代であり、本当の歴史を知ることは不可能だろうと思っています。
それでも、古代の日本人が何を信じていたのか、千年王国が実現していたという観点から考える事は、とても興味深いと思いました。
特に、日本にも千年王国が伝わっていた可能性を考えることは、日本人の私たちの信仰を、さらに強めてくれるのではないかと考えています。































