第7回 暗黒時代という謎の空白期間
出エジプト記があった事実は消されている
突然ですが、皆さんは聖書の出エジプト記の物語は、実際にあった出来事だと、考えておられるでしょうか?それとも創作された物語だと考えておられるでしょうか?
実は現在のところ、「エジプトには古代イスラエル人が住居していたことを示す考古学的証拠はない」と言われています。イスラエルの考古学者達さえも「残念ですが、出エジプトは聖書に書かれているように起こらなかった」と声をそろえて語り、「出エジプト記の痕跡はまったく見つからない」と証言しているのです。
もし出エジプトが事実でないのなら、ユダヤ教もキリスト教も、どちらも架空の物語に基づいて成立しており、また私たちの信仰も、架空の物語を本当の物語だと信じて、その上に成り立っていることになります。
暗黒時代で消された出エジプト記の証拠
ところが実際には、聖書の記述と合致する様々な証拠が、エジプトで発掘されています。「パターン・オブ・エビデンス: 出エジプト記」というドキュメンタリー映画が2015年に公開されて、エジプトに古代イスラエル人が住んでいた痕跡や、彼らが出エジプトした痕跡を紹介しています。
証拠があるにもかかわらず、考古学者からは無視され、一般人にも全く知られていません。なぜなら「時代が合致しない」と言われているからなのです。時代が合致しない理由は、エジプトの歴史に暗黒時代が設定されているからなのです。
千年王国とは、少し話題が逸れてしまいますが、エジプトで見つかっている出エジプトの証拠を、簡単にご紹介したいと思います。
ヨセフとヨセフの家族は、エジプトのゴシェンに到着した
出エジプト記は、エジプトで奴隷になったヘブライ人(イスラエル人)が、エジプトから脱出する物語です。そもそもヘブライ人がエジプトに住み始めたのは、兄たちに憎まれてエジプトに奴隷として売られたヨセフの物語に端を発しています。ヨセフは、エジプト王の夢を解いて、エジプトを大飢饉から救います。その後エジプトの宰相の位までのぼりつめ、飢饉で苦しんでいた父や兄弟たちを、豊かなエジプトへ呼び寄せるのです。
ヨセフの家族はゴシェン(ゴセン)の地に住み始めますが、現在その場所はアヴァリスと呼ばれていて、発掘調査が行われています。アヴァリスでは大量のセム族(イスラエル人)が住んでいた痕跡が見つかっており、その住民たちは、ある時期に持ち物を捨てて、脱出したということも調査で明らかになっています。
このアヴァリスに、地位が非常に高い人が住んでいた、御殿のような住居が見つかっています。この御殿は12の柱を使って建てられ、御殿の裏庭には12の墓がありました。まるでイスラエル12部族の祖となった、ヨセフと兄弟を彷彿させるようなこの御殿の中に、1つだけ特別な墓が、礼拝堂として建てられていました。
礼拝堂の中には彫像が残されており、彫像の髪型は赤毛のマッシュルームカットで、肌は淡黄色で、エジプト人ではありませんでした。縞の多色模様の上着を着て、肩には投擲用の木片があり、パレスチナ人だったことを示していました。
エジプト学者や考古学者によると、この彫像の人物は、ヨセフか、または驚くほどヨセフに似た経歴を持つ人物だったと考えられるそうです。つまり、ヨセフと、12部族の祖となった兄弟たちの墓かもしれないものが発見されていたのです。この墓には遺体が残されておらず、出エジプト記13:19の記述の通り、ヨセフの遺骸を携えて、エジプトを脱出したのかもしれないと映画で解説されています。
またエジプトはノーム(ノモス)と呼ばれた行政区画に分けられていました。ところが、ある時突然、パワーバランスが崩れ、エジプトのノームの富が、ファラオへと集中していたことが判明しています。ヨセフの飢餓対策が、ファラオに富をもたらしたことが聖書に記録されていますが、まさにその通りの出来事が、エジプトで起こっていたのです。
エジプト人が災害を記録していた
ヘブライ人がエジプトで奴隷となっていた物的証拠として、ブルックリン・パピルスと言われるものが見つかっています。このパピルスには奴隷の名前が100人ほど記載されており、7割がセム系の名前で、「メナヘム、イッサカル、 アシェル、シフラ」など、聖書に登場するヘブライの名前が記されていいました。ヘブライ人は確かに、エジプトで奴隷となっていたのです。
アヴァリスの発掘調査では、赤子の死亡率が非常に高かったことが判明していました。ヘブライ人が増え始めたことを恐れて、エジプトの王が「男子が生まれたら殺すように」と命令していましたが、実際に実現していたのかもしれません。それを裏付けるように、大人の墓の調査では、女性は6割に対して男性は4割と、男子の人口が減っていたことも判明していました。
そしてエジプトの書記官イプエルが、パピルスに記した「エジプト賢者の戒め」には、出エジプト記の出来事と思われるような、文章が記されていました。ナイル川が血の川になったこと、人々がエジプトを出国するときに、装飾品などエジプトの財宝を身に着けて出国した(出エジプト記3:21、22)など、出エジプト記に書かれている災害や混乱の様子が、エジプト人によって記録されていました。
ナイルの川は血の川だ。
エジプト賢者の戒め 書記官イプエル
1敵でも飲めば、人間らしさを失い、のどの渇きに苦しむだろう。
豊富にあった大麦は尽きた。食料は不足してくる。
貴族も外の嵐から避難できても、飢えの苦しみからは逃れられないのだ。
見よ、災いが大地を襲う。
流れた血で覆われ、死者が途切れることはない。
同胞を地に埋める人々が全土にあふれる。
その時を嘆き、私も苦悩に包まれる。
哀歌と混じりあった悲嘆は、全土に広がっていく。
貧民が富豪になり、上等な服をまとい、主人の所有物を思うままにできるようになった。
エジプト人は服を奪われ、奴隷は欲しいものを得る。
金の飾り、ラピズラズリ、銀、ターコイズ、これらは女性奴隷の首にかけられた。
さらに大勢のセム族が住んでいた、エジプトのカフーンという街も、突然放棄されていました。奴隷制度があったこの街では、住民が一夜にして消え去ったことが、発掘調査で判明したのです。
まとめると、以下のようなことがエジプトで見つかっていました。
- エジプトのゴシェン(現在はアヴァリス)にヘブライ人が住んでいたこと
- ヘブライ人の人口が増加していたこと
- 富がファラオに集中したこと
- ヘブライ人が奴隷となっていたこと
- 赤子の死亡率が高く、男子が女子より少なかったこと
- エジプトに災害があったこと
- 住民が荷物をまとめてエジプトを脱出したこと
発掘調査で見つかったのは、まさに出エジプト記の物語を彷彿させるようなものだったのです。
エリコの発掘調査も完全に聖書に合致していた
出エジプト記に書かれた通りのものが、エジプトの発掘調査で見つかっただけではありませんでした。驚くべきことに、エリコの街の発掘調査結果も、聖書の記述通りだったのです。
エジプトを脱出したヘブライ人は、荒野を40年さまよった後、約束の地であるカナンに入ります。カナンで最初に攻撃した都市はエリコの街でしたが、ヨシュア記6:26の記述のように、エリコの街は何世紀も放置されたままになっていました。
考古学者が発掘したのは聖書の記述通り、高い城壁が崩れた街でした。エリコの街は火災で焼き落されていて、自然災害ではなく攻撃によるものであると結論付けられました。食料を貯蔵した瓶の中には、十分な穀物が残されていて、収穫時期である春であったと推測されています。エリコを攻撃する前に、春の祭りである過ぎ越しの祭りを祝ったことが聖書に記載されていて、こちらも聖書と合致していました。
さらにそれだけではなく、城壁内側の一区画で、奇跡的に守られた家があったことも判明していました。イスラエルの斥候を助けた、遊女ラハブの物語(ヨシュア記2章と6章)とも、完全に合致していたのです。
暗黒時代を短くすると出エジプト記とピッタリ合致
これだけ聖書と合致する発掘調査の結果がありながら、「出エジプトはなかった」ことになっています。なぜならエジプトで出土したものと聖書の出エジプト記とは、「時代が合わない」と言われているからなのです。
例えば、上記に紹介したエリコ発掘調査を1930年に担当した人たちは、「聖書の記述に一致する遺跡を見つけた」と考えていました。それなのに1950年代に発掘を担当したキャサリーン・ケニヨンが、「エリコの破壊は、もっと早期だ」と主張して、「聖書の記述と一致するような証拠はない」と発表したのです。年代をずらすことで、発掘調査と聖書の物語は、合致しないように調節することができるのです。
さてエジプト文明の歴史は、大まかに分けると、古王国、中王国、新王国の3期に分かれます。それぞれの時代に暗黒時代という、何が起こったかよくわからない時代が設定されています。
「パターン・オブ・エビデンス: 出エジプト記」の映画では、エジプト新王国に設定されている暗黒時代を縮小させると、聖書の記述と、エジプトで発見された遺跡とが、ピッタリと一致することを紹介しています。
下の動画は日本語訳の映画の一部を紹介したものです。(ネタバレ注意です)
パターン・オブ・エビデンス: 出エジプト記の映画は、「聖書って神話でしょ!」などと言うような、無知な人への反論材料としてもおすすめ映画です。
こちらは英語版のプロモーションビデオです。英語版はアマゾンなどで視聴可能です。聖書はおとぎ話でなかったことを証明していて、聖書を学ばれている方に大変おすすめのドキュメンタリー映画です。
中世の暗黒時代は500年~1000年
暗黒時代を歴史に導入して、聖書の歴史と合わないようにすることは、支配層のお家芸ではないかと私自身は考えています。ヨーロッパの歴史にも、暗黒時代が設定されていて、「中世の暗黒時代」と呼ばれています。
どれくらいの期間を暗黒時代と言うのかについて、大きく2つの解釈があり、①ローマが崩壊した476年~1000年までの500年間、②ローマ崩壊した476年~ルネッサンスまでの1000年という意見に分かれています。
ブリタニカ百科事典に、暗黒時代は西暦500年~1000年まで、中世の最初の500年と書かれています。
ChatGPTでは、ヨーロッパの暗黒時代が、「5世紀から15世紀まで1000年間続いた」と答えました。
日本語訳:暗黒時代はどれくらい続きましたか?
中世としても知られる暗黒時代は、ヨーロッパの歴史の中で、5世紀から15世紀まで続きました。この時代は、侵略、戦争、貧困の蔓延を特徴とする、社会的、経済的、政治的大混乱の時代であると考えられています。「暗黒時代」という用語は元々、この時代を、文化的および経済的な衰退の時期と見なしたルネサンス時代の学者によって、使用されましたが、現代の歴史家はこの見解をほとんど拒否し、代わりにこの時代を移行と発展の時期と見なしています。
ChatGPT
Dictionary.comでは、暗黒時代とは「476年~1000年までの期間」と、「中世全体を指して、476年~ルネッサンスまで」と、2つの考え方があることが書かれています。
Dictionary.com
第五回、第六回の「想像を絶する歴史の改ざん」で、歴史に500年~1000年間の歴史を追加している疑惑を紹介しましたが、中世の暗黒時代の期間も500年~1000年で、追加している期間とピッタリと一致しています。
つまり、「暗黒時代を追加して、歴史を500年~1000年引き延ばしたのではないか?」と考えられているのです。
さて暗黒時代とは、西ヨーロッパの文化や経済が悪化し、たえず飢饉が起こり、不衛生で黒死病や疫病が流行し、平均寿命は30歳以下だったと言われています。科学の進歩は見られず、政治的にも不安定な時代で、宗教が権力をもち、人々は迷信や神話にすがっていたそうです。この時代の記録はほとんど残らず、史料は圧倒的に少ないそうです。
そんな悲惨な暗黒時代に、下の写真のような、壮大な建物が建てられていました。絶えず飢饉があって、食べるものがなく、馬と馬車しかない時代で、電動工具やクレーンもない時代です。それなのに、とてつもなく素晴らしい荘厳な建築物が建てられていました。暗黒時代は暗黒ではなかったのです。
歴史を捏造した人たち
「歴史を捏造した人物」として有名なのが、スカリゲル(Joseph Scaliger1540年~1609年) というイエズス会の宗教指導者兼学者と言われる人です。歴史は1000年追加されていると主張するアナトリー・フォメンコは、スカリゲルについて、「ルネサンス以前の偽りの記録を捏造して、広めることに貢献した、当時の有力な歴史家の一人に数えられる」と語っています。
このスカリゲルによって、ほとんどすべての古典文明の歴史の年表が開発されました。スカリゲルは、数多くの古代の重要な日付を定めたと言われる人物で、ギリシャ語またはラテン語で現存するあらゆる年代順の遺物を収集、修復、整理したそうです。
そしてスカリゲルの歴史編纂研究を引き継いだのが、イエズス会のデニス・ペトーDenis Petau(Dionysius Petavius)
という人です。BC (キリスト以前) と AD (アンノ・ドミニ、主の年)の年代測定法は、525 年に考案されていましたが、普及させたのはデニス・ペトーだと言われます。この人たちが活躍した時代に、グレゴリオ暦が導入されています。
また、ギリシャ語とローマ語の文書のほとんどは、ベネディクト会の修道士によって偽造されたという主張もあります。古代の文献は、オリジナルで残されているものはほとんどなく、コピーのコピーのコピーと言われ、何が真実の歴史なのか、もはや分からなくなっているのです。
放射性炭素年代測定というインチキ
「年代測定には、炭素年代測定があるではないか」と思われている方のために、炭素年代測定について簡単に解説しておきます。多くの人が炭素年代測定を使って、正しく年代を測定できると信じています。一見すると科学的測定に見えますが、実は炭素年代測定とは「何千万年古い」などのウソを、科学的に証明したと思わせるためのインチキツールです。
第12回ノーベル・シンポジウム議事録には、「放射性炭素年代測定法が、自分たちの理論を支持するならば、教科書に記載しましょう。完全に矛盾していない場合は、それを脚注に入れます。もしそれが完全に無効となるなら、取り下げましょう」と書かれています。つまり「自分の研究に有利な数字が出たときだけ利用しましょう」ということなのです。
炭素年代測定は「Carbon-14 prostitute(炭素14は売春婦)」とも言われ、「自分の研究を、都合よく主張するために使われている」と揶揄する研究者もいて、信用されていません。
聖書の創造論を語るケント・ホビンド博士が、3 人の進化論者を相手に、エンブリー・リドル大学で討論している動画が公開されていますが、この討論でホビンド博士は、放射性炭素年代測定法について、その成り立ちやどのようにして調べるのか、なぜエラーがあるのかを述べています。
彼が語った測定結果の事例を少し紹介すると、「放射性炭素年代測定法で、殺されたばかりのアザラシは1,300歳となりました。マンモスの体の一部が40,000歳と定められたのにもかかわらず、別の体の部分では26,000歳でした。生きているカタツムリが27,000歳と年齢を定められました。」と、放射性炭素年代測定法が、いかにインチキなのかを紹介しています。そして最後は、「もし放射性炭素年代測定法で、年齢などを証明できると思うなら、あなたの脳ミソの検査が必要です。」という言葉で締めくくられています。
下の動画は、放射性炭素年代測定法について語る個所からリンクしていますので、是非参考にしてください。