第2回 すぐに再臨すると語るヨハネの黙示録

「すぐに起こるはずの事」と書かれた黙示録

ヨハネの黙示録は、キリスト教徒が迫害を受けていた時代に書かれたことは明らかです。
「死に至るまで忠実であれ。(黙2:10)」「死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。(黙12:11)」「今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである。(黙14:13)」などの言葉からわかるように、迫りくる恐ろしい迫害の前に、イエスに対する信仰を捨てないように励ましています。

その当時、イエスを信じた人達が受けた拷問と処刑が、どれほど恐ろしいものであったかは、「使徒教父文書」や「教会史」などの書物に記されています。イエス・キリストを信じる信仰を持つことは命がけだった時代に、励ましの言葉と共に、黙示録にも「キリストがすぐに来る」ことが語られています。

黙示録の言葉

黙示録 1:1 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

黙示録 1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである

黙示録 1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

黙示録2:25 ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい

黙示録3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練(原文の英訳:about to come upon the inhabited world:まさに来ようとしている試練)の時には、あなたを守ろう。

黙示録3:11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。

黙示録 10:6 永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない

黙示録22:6 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

黙示録22:7 見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

黙示録22:10 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである

黙示録 22:20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。


初代キリスト教会では、おびただしい数の人々が、イエスを信じたことにより処刑されました。彼らに対して「すぐに来る」と言いながら、この2千年間キリストからはまったく音沙汰がないことになっています。「ひょっとすると、すぐに再臨があったのかもしれない」と考えることは、まったくばかげたことではないと考えています。

黙示録はいつ書かれたのか?

千年王国については、黙示録のみに記述がありますが、黙示録の内容について討論されていることを少しご紹介します。実はヨハネの黙示録の成立は、西暦64年頃と、西暦96頃の2つの説があります。聖書辞典には「ドミティアヌス帝時代の西暦90年代に書かれたと考えるのが妥当」と書かれています。またウキペディアにも、96年成立説の方が有力であるように書かれています。しかし少数派ですが、黙示録はネロ帝の時代の西暦64年頃に書かれたと考える聖書学者もいます。

黙示録がいつ頃書かれたのかという問題は、実はとても重要なのです。もし千年王国が終わっていたとしたら、黙示録に書かれたいくつかの預言は、すでに終わっている可能性があるからです。それを特定するためにも、いつ書かれたのかを知ることは大切です。黙示録がいつ書かれたのか、論点となっていることを、簡単に解説してみたいと思います。

神殿崩壊前だったのか? 後だったのか?

通常教会で教えるのは「神殿崩壊後に書かれた」という西暦96年説です。その理論の根拠は、「文章が残されている」と主張されているからです。一番重要な根拠とされる、エウセビオスの「教会史」に記載されている文章を紹介します。

しかし、もし今ここで、その者(反キリスト)の名をはっきりと告げる必要があれば、その黙示を見た者(ヨハネ)がそれを告げていただろう。なぜならば、それが見られたのはそれほど昔のことではなく、ドミティアヌスの治世の終わりで、殆どわれわれの世代のことだったからである。

エウセビオス「教会史」上 秦剛平 訳 P172

上記の文章の中で、「それが見られたのは」という部分の「それ」は、「彼」とも訳することができるそうで、文章自体があいまいな表現で、「ヨハネの黙示録がドミティアヌスの時代に書かれた」と明確には述べられていません。

一方「黙示録が書かれたのは、神殿崩壊前のネロ皇帝の時代であった」と考える人たちの主張を簡単にまとめると、以下のようになります。

黙示録が神殿崩壊前に書かれたと考えられる証拠

  1. 「ヨハネが皇帝ネロによってパトモス島におくられた」と書かれた文献がある。
  2. ネロ帝の治世中に、広範囲に及ぶキリスト教徒の迫害を裏付ける証拠は数多くあるのに対して、ドミティアヌス帝の統治下で、大規模なキリスト教徒迫害があったという証拠は不足している。
  3. 黙示録17章に書かれている、7人の王は、ローマ皇帝のリストで裏付けることができる。
  4. 黙示録11章1節でのエルサレム神殿に関する言及は、黙示録が書かれた時に、神殿がまだ存在していたことを示唆している。


上記の4つの項目についてもう少し詳しく説明します。
❶の文献の証拠ですが、聖書の最も古いバージョンの一つに、シリア語の聖書があります。この文章の解説に「福音伝道師のヨハネがパトモス島にいたときに、神から与えられた啓示であり、そこには皇帝ネロによって追放された」と書かれているそうです。
https://raptureless.wordpress.com/2012/03/11/the-date-of-authorship-for-the-book-of-revelation/#app2notes
https://www.soh.church/when-was-revelation-written/



❷の迫害の比較は、ネロ帝とドミティアヌス帝と比べると、ネロの方が残酷な迫害だったと言われています。例えばエウセビオスは、ドミティアヌス帝の治世中に、「キリスト教徒への迫害はあったが、ネロの時代の迫害とは違っていた」という、ローマの弁護士テルトゥリアヌスの証言を引用しています。人々は「ドミティアヌス帝はネロ帝よりましだった」と考えていたようです。

かつてドミティアヌスも、彼(ネロ)と同じことを企んだことがあった。彼は残忍さの点ではネロの分身だったからである。しかし、私が思うには、彼はいくらかの判断力を持っていたので、(迫害を)すぐに中止し、迫害した人を呼び戻した。

エウセビオス「教会史」上 P174

❸については、黙示録 17:9と17:10は、ローマ帝国とローマ皇帝で解説できると考えられています。「七つの山」とはローマの七丘と呼ばれた古代ローマのことで、「七人の王」とはローマ皇帝です。

「五人はすでに倒れたが」と書かれていますが、1番目はジュリアス・シーザー、2番目はアウグストゥス、3番目はティベリウス、4番目はカリギュラ、5番目はクラウディウスの計5人で、「ひとりは今おり」というのが、黙示録が書かれた当時の皇帝ネロを指しています。ネロが死んで皇帝ガルバとなりましたが、彼は半年で死亡したので、「もうひとりは、まだきていない。それが来れば、しばらくの間だけおることになっている。」と書かれ、実際にその通りになりました。

❹については、黙示録11:1に「神殿を測りなさい」と書かれています。まだ神殿が存在していた時だったからこそ、「神殿を測れ」と言われたと考える方が、理にかなっているという意見です。もし黙示録が、神殿崩壊後の西暦90年代に書かれたのなら、神殿はすでに破壊されているのに、「神殿を測れ」と言われたことになります。

またユダヤ人の歴史の中で、最も終末的で悲劇的な出来事だった「エルサレムの破壊と神殿の破壊」について、黙示録では一言も言及していません。「それは例えると、911で世界貿易センターのツインタワーが破壊されたことに一切言及せず、ニューヨークの歴史やニューヨークのテロについての論文を書くようなもの」と表現している人がいました。とても信じられないことだと言われています。

イエスが語られたエルサレムの滅亡の言葉と、黙示録11章の神殿に関する記述には、関係性が見られるので、黙示録は第二神殿の崩壊前に記述されたと考える方が、正しいのではないかと思います。

ルカ 21:24 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます

黙示録11:1それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。2 聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのまま差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる

神殿の崩壊をもたらしたローマとユダヤの戦争は、四十二か月間続いたと言われています。またネロは西暦64年11月中旬か後半頃に、キリスト教徒への迫害を開始し、ネロが自殺した西暦68年6月9日に、迫害は終わったと言われます。ネロによる迫害は3年半、つまり四十二か月続いたのです。

キリスト教徒を迫害したローマ皇帝ネロ

ここで少し皇帝ネロについてまとめてみます。西暦54年に16歳の若さで皇帝となったネロは、ローマ帝国によるキリスト教の迫害を行った最初の人物と言われています。ネロは自分の母親や二人の妻を殺害し、同性愛者で「暴君」として知られている皇帝で、多くの罪のない人々を殺害しました。残酷な性質だった様子が、古代歴史家タキトゥスの「年代記」などに書かれています。

西暦64年7月、ローマでは数日にわたる大火が発生しました。首都ローマの大半を壊滅させたと言われた大災害でしたが、皇帝であるネロが放火したと言われ、人々はネロを非難していました。そこでネロはこの噂を打ち消すために、キリスト教徒に放火の罪を着せたのです。この時、多くのキリスト教徒が、残酷に処刑されたことが知られています。

(年代記より)
民衆は「ネロが大火を命じた」と信じて疑わなかった。そこでネロはこの風評をもみ消そうとして、身代わりの被告をこしらえ、これに大変手の込んだ罰を加える。それは、日頃から忌まわしい行為で世間から憎み恨まれて「クリストゥス信奉者」と呼ばれていた者達である。この一派の呼び名の起因となったクリストゥスなる者は、ティベリウスの治世下に、元首属吏ポンティウス・ピラトゥスによって処刑された。その当座は、この有害きわまりない迷信も、一時おさまっていたのだが、最近になってふたたび、この禍悪の発生地ユダヤにおいてのみならず、世界中からおぞましい破廉恥なものがことごとく流れ込んでもてはやされるこの都においてすら、猖獗しょうけつを極めていたのである。

そこでまず、信仰を告白していた者が審問され、ついでその者らの情報に基づき、実におびただしい人が、放火の罪というよりむしろ人類敵視の罪と結びつけられたのである。彼らは殺される時、なぶりものにされた。すなわち、野獣の毛皮をかぶされ、犬に噛み裂かれて倒れる。あるいは十字架に縛り付けられて、あるいは燃えやすく仕組まれ、そして日が落ちてから夜の灯火代わりに燃やされたのである

ネロはこの見世物のために、カイサルの家を提供し、そのうえ、戦車競技まで催して、その間中、戦車御者の装いで民衆の間を歩き回ったり、自分でも戦車を走らしたりした。そこで人々は、不憫の念をいだきだした。なるほど彼らは罪人であり、どんなむごたらしい刑罰にも値する。しかし彼らが犠牲になったのは、国家の福祉のためにではなく、ネロ一個人の残忍性を満足させるためであったように思われたからである。

タキトゥス 年代記(下)国原吉之助訳 第15巻44

上記の文献に書かれている「クリストゥス信奉者」とは、イエス・キリストの信者のことで、ローマ人だった筆者のタキトゥスから見ると、イエスを信じる集団は、「有害きわまりない迷信」と思われていたようです。それでも彼の文章から、放火の罪を着せられて処刑されたキリスト教徒に同情して、当時のローマの人々が気の毒に思っていた様子が伝わってきます。

ネロ皇帝については、「忌まわしい極悪非道な暴君」「有害な野獣」と書いていた人がいました。ネロはあらゆる口実で人々を死刑にしたとも言われています。殺害した母親とは、近親相姦の関係があり、また同性愛者で、親族の多くを処刑または殺害しました。コロシアムの見世物のため、杭に縛られた男女の陰部を猛獣に攻撃させたと言われています。

ネロ帝の時代に、キリスト教徒の迫害が本格的に始まりました。イエスを信じる人たちが迫害に耐えるために、ネロの迫害が始まる直前、つまり第二神殿が崩壊する前に、黙示録が書かれた可能性が高いのではないかと主張されています。

獣の印も終わっていたか?

もし千年王国が終わっていたとしたら、黙示録に書かれた多くの部分は、すでに終わっている可能性があります。黙示録で大変有名な、666の獣の印については、マイクロチップのような未来のことではなく、ローマ時代の出来事ではないかとも言われています。とても興味深い記述がありますのでご紹介します。

ローマでは皇帝は神、あるいは神の子であると公然と宣言していました。ローマの管轄下にあったすべての地域では、人々は一つまみの香を焚いて「カエサルは主である」と宣言することによって、ローマ皇帝への忠誠を公に宣言することが、法律で義務付けられていました。この法律に従うと、人々には「libellus」と呼ばれるパピルス文書が与えられ、ローマ警察に止められたときや、ローマの市場で商取引を行うときに提示することが求められました。

多くの地元当局者は、ローマへの賛辞を捧げない限り、市場の門を通過することさえ許されなかったのです。ローマ帝国とその皇帝に敬意を表した後、お香の灰は個人の手、または額に置かれ、市場への入場が許可されました これは「印を付ける」と呼ばれていました

Mark of the Beast Revealed Why finding it now is more important than ever.
https://www.facebook.com/1691518451127950/posts/david-duncanthe-mark-of-the-beast-666-is-nothing-we-need-to-concern-ourselves-wi/2698837063729412/

この記事の内容は、もう少し詳しく調査したいと思っていますが、一つまみの香を焚いて「カエサルは主である」と宣言し、お香の灰は手、または額に置かれ、市場への入場が許可されたということがもし事実であれば、ローマの支配下に住んでいたキリスト教徒にとって、「物を買うことも売ることもできない」状態だったと考えられます。

また獣の数字と言えば666ですが、ネロはヘブライ語で、666の数値となります。「獣の数字は666ではなくて、実は616だった」とも言われていますが、ネロはラテン語では616の数値になります。

666なのか、それとも616なのか、どちらなのかということについて、聖書学者のブルース・メッツガーの意見ですが、「ヘブライ語からギリシャ語に翻訳した人物が、666というのはネロのことだと知っていたので、ギリシャ語に訳したとき、ネロのギリシャ語の数値に合うように616と書いたのではないか」と解説しています。聖書学者で言語学者のマイケル・S・ハイザー博士も同じ意見だそうです。
R・C・スプロール博士がネロの人物像について解説しています。

初期の教会の著述家であるユスティノス エイレナイオス が、紀元 1 世紀に「彫像に命を吹き込むことができたシモン・マグス 」 について書いているそうです。この時代には彫像が話し奇跡を起こすことができると見なされるのが一般的だったそうで、シモン・マグスとは、使徒の働き8章に登場する、魔術師のシモンのことです。彼は空中を浮揚することができるほどの魔術師でした。

シモン・マグスについては様々な文献が残っているようで、こちらの動画の解説 では、第二の獣がシモン・マグスである可能性を解説していて、大変興味深いと思いました。

ローマの歴史家カッシウス・ディオ は、外国の王であるティリダテスが、ネロと彼の像を崇拝した様子を詳細に記録しているそうです。 多くの古代の歴史家が、ネロの治世中(および治世後の両方で)、皇帝を崇拝することを拒否した人々は、処刑されたと主張しています。

ヨハネの黙示録は、恐ろしい拷問と処刑の迫害が目前に迫った人たちに向けて書かれています。それなのに、二千年経った現代でも、いまだに明確に実現していないようなことを、はたしてヨハネは黙示録として書いていたのかと疑問を感じませんか?

「黙示録は神殿崩壊前に書かれた」ことに関する、動画のプレイリストなどがありますので、ぜひ参考にしてください。Revelation was written before 70ad