球体派のプレゼンテーション(その1)

これから球体派のグレッグ・ロック牧師のプレゼンテーションを2回に分けて紹介します。公平になるように、できるだけ発言のポイントを正確にまとめるように心がけています。ロック牧師からは、写真や動画などは提供がなかったので、文字のみでの紹介になります。

先に申し上げておくと、ロック牧師は、①地球は回っている、②月は太陽の光を反射している、③重力がある、などとプレゼンテーションで語りましたが、その発言をバックアップする聖句や情報は、まったく提供されませんでした。この討論会の動画はこちらです。(ロック牧師のプレゼンテーションからリンクしています)

球体派のグレッグ・ロック牧師のプレゼンテーション(その1)

冒頭で語られた聖句

詩篇8:1 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。8:2 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。8:3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、8:4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

「幼子によって力を打ち建てられました」と書かれていて、「敵や復讐する者や反対する者達をしずめる」と言っている。そしてダビデは詩篇 8 章で「世界は完全に神によって造られた」という事実について話し始めるのだ。

「あなたの指のわざである天、あなたが整えられた月と星をみます」と彼は言う。神の指のわざは、まさにヘブンであり、ファーマメントであり、月であり、星である。神がそれを作るのに何の必要もなかったと言った。それから彼は、「あなたが自分のことを気に留めているとは、人間とは何なのか」と尋ねた。

2つの異なる考え方

これから2つの異なる方向性について説明する。私は単に「広がり(expanse)」について話しているわけではない。 ファーマメントとは明らかに天(ヘブン)を意味する。それが聖書に書いてあることだ。しかし私は、ダビデが見上げて主が創造されたすべてのものを見たという、神の「広大さ(expansiveness)」をとても信じている。

ダビデは信じられないほどの神の創造物を見て、「私は何者で、人間とは何なのか?あなたは私のことさえ気にかけてくれるのか?あなたがその広大さを創造し、信じられないほど多くの物の中で、なぜ私のことを考えるのか?」と言った。

創世記2:1 に「天地万物は完成された」とあるから、宇宙が拡大しているとは信じていない。だが、「宇宙に対する私たちの理解は拡大している」のだ。これは2つのまったく違う考えだ。

私たちは、神の創造の最高傑作であるという事実を、認識しなければない。神(イエス)は鳥のために死ななかった、岩のために死ななかった、惑星のために死ななかった、大気の状態のために死ななかった。イエスは世の罪のために死なれた。

私たちは天地創造の中心で、神の最愛の者である。その神に造られた人間が、「創造物は私よりもはるかに大きいのに、なぜあなたは私のことを考えるのですか?」と言った。したがって、正直に言うと、この箇所は天地創造に関することではないのだ。

天地創造についてはオーディル牧師と同じ意見である

天地創造に関してオーディール牧師と同じ意見だ。 私はビッグバン理論を信じておらず、何百万年も過ぎたと信じていない。文字通りの6日間の天使創造を信じている。猿が人間になったとは信じていない。

これらのナンセンスを私は信じない。これらは悪であり、科学は間違っていて、ローマ人への手紙の1章にも「真実を抑圧している」と書かれている。私があなたとは異なる地球モデルを信じているからといって、私がダーウィンの進化論者であるということではない。

科学が聖書よりも偉大であるとは考えていない。聖書は科学の本ではないが、科学的に正確だ。また聖書は数学の本ではないが、数学的に正確である。神が創造を行った方法についても意見が異ならない。よって私たちは天地創造について議論しているのではない。

昔の人は様々な形の地球を信じていた

私たちは「地球の形」について議論している。フラットアーサーは、「昔の人たち全員が信じていた」と言うが、古代のヘブライ人が信じていたことは事実であるが、全員ではないのだ。

フラットアーサーはロゴス・ソフトウエアの提供する(フラットアースの)イラストを好んで使っている。私はロゴス・ソフトウェアに電話して質問した。担当者は、「フラットアース説という非科学的なことは信じていない」と言った。

さらに「人々がかつて実際に信じていたことに基づいて、ソフトウエアに記載する必要があった。それは実験や観察を通じて、はっきりと目に見える経験や感じられることを彼らが理解し始めるまでのことである。」と言ったのだ。

YouTube のフラットアーサーは、フラットアースはかつて「唯一の宇宙論だった」と言う。しかし「いくつかのうちの一つの宇宙論」だった。なぜなら多くの人が、地球は亀の背中にあるとか、四角いとか、三角とか信じていたのだ。終わりのない大地とか、パックマンのように、地球の端と呼ばれる場所に到達できれば、反対側に戻ってくることができるとか、空想的な概念がある。もはやSFの領域で、聖書の現実をはるかに超えている。それが宇宙でどのように機能するか、あなた方は宇宙を信じていないので、その議論は理解できない。

宇宙人はいないが宇宙はある

使徒の働き 17:26 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

私たちは皆、地球の全表面に住む一つの血統の人間である。そして神が私たちに、「居住の境界を与えた」と書かれている。だから私は宇宙人、ETや、リトル・グリーン・メンの存在を信じない。エイリアンが来ると言うのは、終わりの時代のあざむきである。

「住まいの境界とをお定めになりました」と書かれているが、なぜ神はそうしなければならないのか? その理由は、神が創造した他の惑星は、居住に適したものではないからなのだ。「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。」と書かれていて、ダビデは月や星など、神のみ手のわざに魅了された。

つまり私たちは、「地球のみに住むことを義務付けられている」のである。その観点からすると、私たちは神の創造の中心となるが、地球は銀河系の中心ではないのである。住んでいるのは我々のみだが、それだけではないことを証明しよう。

ヘブル人への手紙 11:3 信仰によって、私たちは、この世界(the worlds)が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

「the worlds」と複数形になっていて、惑星は複数あるのだ。先ほどの使徒の働き17:26で紹介したように、人が住むことができるのは、一つだけであるということだ。その地球に住む人々の罪のゆえ死ぬために、たった一人イエスが遣わされた。
(※注:この個所については、ディーン牧師から、「世界=惑星」の解釈は間違いで、原語は「時代、時間、期間」を意味すると指摘されたことを、次の回で紹介しています。)

フラットアースが救ったのではなく、イエスが救ったのだ

地球の形は福音の問題ではないし、福音の問題にしたくはない。「クリスチャンなら、これを信じなければならない」と言うようなことは危険である。フラットアース、四角い地球、球体の地球を信じて、地獄に行くこともある。これは救いの問題ではまったくない。

無神論者たちが救われていることを聞いて、うれしいことだと思う。しかし気を付けなければならない。「フラットアースが私を救った」と言うが、救ったのは福音である。フラットアースは、救いに至った道で、天地創造はあなたを魅了したかもしれないが、それが救ったのではない。球体の地球が救うのでもない。イエスが救うのである。イエスがあなたの中に入ってきてくれてあなたの心が変わったからだ。地球の形が救ったのではない。

私はかつて、秘密携挙を信じて教えていたが、今は信じていない。しかし秘密携挙の「レフト・ビハインド」の映画や教えにより、キリスト教に改宗した人がいることを無視してはいけない。間違った神学からでも聖書を学ぶ人がいる。このように、間違った地球モデルでも、良い結果を生み出す。

良い結果になるのは福音に基づいているからだ。陰謀論のおかげで人々が教会に戻ってくるのは嬉しい。フラットアーサーとは意見がまったく違うが、私はフラットアーサーと仲良くなって一緒にお茶することだろう。しかし私たちのことをYoutubeに投降するなら、私は「地球は回っている」と言うだろう。これが事実だから。とにかく人が信仰に至る唯一の方法は、地動説や天動説ではなく、イエスを通してであるということだ。

ヨブ記38章の解釈

私はディーン牧師のヨブ38章の解釈を、攻撃するのではなくて修正する。

ヨブ記38:12 あなたが生まれてこのかた、朝に対して命令を下し、暁に対してその所をさし示し、13 これに地の果て果てをつかまえさせ、悪者をそこから振り落とさせたことがあるか。14 地は刻印を押された粘土のように変わり、衣服のように色づけられる。

(刻印を押されたという個所が)「打ちつける、印する、上向き」など書かれていることに、私は興味がない。なぜならこの節とはまったく関係がないからだ。ここでは神が単に、太陽の例え話をしているだけであることがわかる。

13節の主語は「暁」である。つまり太陽が昇ること。悪人がそこから振り落とされるとは、太陽が昇り、悪者は隠れることができないということ。地の果て果てをつかまえさせ、悪者はそこから振り落とされるかもしれない。ディーン牧師は粘土が印章のように変化すると解説した。このような印章リングの例えをいくつも語ることができるだろう。

印章リングをろうに浸すと、は印章の隙間に入り込み、使用が可能になる。つまり、太陽が昇ると、地球の裂け目と亀裂の闇が姿を現し始め、地に光が差し込む。 それまでは輪郭も曲率も見えなかったが、太陽が見えなかったものに真実性をもたらすのと同じように、印章リングをの中に浸すと、はリングの亀裂を埋める。

この個所で、神が語っていることはただ一つである。それは朝、太陽が昇るときに太陽光がもたらす啓示のことだ。ここでは日の出についてのみ、語られているのだ。

太陽が昇ると、見ることができなかったものに光を当てる。それはろうに形あるものを浸すまで形がないのと同じだ。聖書の最初の章でそれが起こった。やみが深淵のおもてを覆っていた時、神は光あれと言い、神が創造されている物の輪郭に光が射した。

残念だが、この節は地球の形について語られたのではない。この節を利用して「印章を押した」とか言うのは、気がきいていて素晴らしいことだ。あなたが好むように、どんな形の地球でも信じたらいい。

私の不満は、フラットアースを信じている人たちではなく、「聖書がフラットアースを教えている」と言う人たちで、これは全く違った概念である。とにかくこの節は、他の意味に解釈することはできない。これは太陽が昇ることを語る節である。それだけなのだ。

エノク書はナンセンス

私はエノク書については話さない。エノク書というナンセンスをやめてほしい。エノク書が当てはまるときは引用するが、エノク書の後半になって、当てはまらないときはスキップするではないか。

聖書はエノク書を引用し、使徒パウロや歴史家や詩人も引用したが、それが歴史的な型だったからだ。しかし聖書がフラットアースを教えていると言うなら、聖典でない書物を使用しないでほしい。エノク書に書いてあることなどどうでもいい。エノク書はエノクによって書かれてすらいない。

NASAが何を言おうと気にしない

NASA から学んだ地球について、私が信じていることは何もない。ある動画では、「地球儀の裏には、「教育目的ではない」と書かれているから、丸い地球儀は信じることはできない」と言っていた。コンドームの箱の裏にも「性的接触による伝染病や妊娠を防げない」と書かれているではないか。それは免責事項である。球体について、私がNASAから学んだことは何もない。NASAの言うことなど、どうでもいいのだ。

(フラットアース説の元祖と言われる)サミュエル・ロウボトムはNASA よりはるか昔に生きた人だった。彼は詐欺商品を販売する人で、キリスト教を信仰しているというよりも無神論者で、彼のキリスト教はせいぜいうわべだけのものだ。彼は20代半ばでこの天文学を思いついたが、まともな仕事に就けなかった男によって、私の神学の枠組み全体が作られるなんてことはない。

この人物は3、4マイルほど平らに見えた小川に行ったのだ。平らに見えたが、後にそれは反証されている。ところが彼はこの神学的枠組み全体を構築して、教会が丸ごとそれを信じた。「聖書を信じている」と言うが、聖書にフラットアースの引用は一切ないのである。

NASAやこんな5年生レベルの教師が何かを言ったところで、私には関係ない。これらはわたしに何の信頼もないのだ。聖書を信じていると言いながら、聖書を軽視することはやめてほしい。

聖書は比喩なのだ

「聖書は単なる比喩に過ぎないと言うことはできない」と言うが、比喩的であることを意図している場合は、「比喩である」と言える。聖書を文字通りに受け取ることができるのは、文字通りに受け取るべき箇所だけである。多くの場合、比喩的なたとえは、比喩的なことの文字通りの理解につながるのである。聖書にはたくさんの比喩がある。

●ニコデモ問答:ヨハネの福音書3:1~
ニコデモは「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と言った。イエスは「だれでも水と霊とによって生まれなければいけない」と語り、新たに生まれるというのは、母の子宮に戻るということではなく比喩で教えたが、これは聖書の中で最大の比喩だった。比喩的に語ったことで、この男に真実の救いを与えた。「あなたは再び生まれなければいけない」と言う比喩だった。

●詩篇23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
この個所は文字通りのことだと思うのか? 荒野に座っていて食事をしているが、槍があちこちから飛んでくるなんてことがあるだろうか。これは「神がどんな状況に直面しても、備えてあなたを守ってくれる」という比喩である。

●ナホム書 1:3 主は怒ることおそく、力強き者、主は罰すべき者を決してゆるされない者、主の道はつむじ風と大風の中にあり、雲はその足のちりである。
神が実際に雲の中を歩き回っているという意味ではない。この個所は神の主権を指す比喩である。

●使徒の働き17:6 しかし、見つからないので、ヤソンと兄弟たちの幾人かを、町の役人たちのところへひっぱって行き、大声でこう言った。「世界中を騒がせて来た者たち(turned the world upside down:世界をひっくり返した)が、ここにも入り込んでいます。」
「天地をひっくり返した」と書かれているが、実際に文字通り世界がひっくり返ったのではない。世界中であまりにも多くの変化をもたらしたので、彼らは破壊しているように見えたということであって、比喩的に書かれているのである。

●イザヤ書 66:1 主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
神は霊であり、神を崇拝する者は霊において神を崇拝しなければならない。「神が足を持っている」などとは、もはやキリスト教の神学でさえない。足台とは、神の統治者と神の権威の下にあるということだ。「足台には柱があり平らだ」と言う人がインターネット上にいる。それはヘブル人への手紙1章を見るまでなら、気の利いた考え方だろう。

神である父は、神であるイエスに言った。イエスは神である。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。(ヘブル人への手紙1:13)」と言われたのだ。この2か所の聖句はどちらも比喩的なものである。「敵もフラットである」と信じない限り、イザヤ66:1の聖句を、フラットアースだと宣言するために使うことはできないのだ。これらは比喩的な言葉で、たとえなのである。

●マタイ5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
私たちは神の栄光を反映するものだが、背中にバッテリーを背負って歩いているのではない。比喩である。これは美しい光景で、イエスは光で私たちは光ではない。私たちはイエスの光を反射して輝いている。それは月が太陽の光を反射して輝くのと同じだ。光は月そのものから来ているわけではない。ここにいる半分の人が理解するだろう。比喩的な用語なのだ。

あなた方のうち、聖書を説く牧師のいない人たちが出席しているが、何を信じるべきなのか今は理解できない。あなたが信じたいことは YouTube が教えてくれたことであり、あなたが信じていないことは、神が聖書の中ではっきりとあなたに告げていることだ。これを区別しなければいけない。

イザヤの地球の円とボールについて

「サークル(円)はボールではない」という議論は、私はどうでもいい。サークルはボールではない。それは正しいが、ボールはサークルで、ボールという言葉はヘブライ語でサークルを意味する。しかし地球の円についての議論はどっちでもいい、気にしない。

さらにロック牧師のプレゼンテーションが続きます。

https://flat.awe.jp/flat-earth-debate6/